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憲法9条とトラウマからの決別~戦争の犠牲が遺したのは平和を愛する日本国民~松田学の論考~

自民党総裁選でも憲法改正が話題になっていますが、今年は平成時代最後の時が暦を刻み始めた年、次の時代の幕開けを前に、いわゆる昭和の「戦後レジーム」の象徴でもある憲法9条について少し、考えてみたいと思います。

●戦争トラウマの軛
「戦後システム」という言葉がありますが、思い返すと、戦後の日本では、国家権力に対する過度の警戒心など、過去の戦争のトラウマが、さまざまな面で制度設計や政策形成、政治や行政の運営などに大きな影響を与え、結果として、日本の国家(政府)として必要な機能の強化を妨げてきた面が多々あったのは事実だろうと思います。

私が立法を経験したマイナンバー制度も、多くの先進国が資産や医療なども含めてより広い分野を対象に運営している個人番号制度よりも、範囲が相当狭い形(税と社会保険と防災に限定)でようやく導入されたものです。30年以上も前にグリーンカード制が廃案になりましたが、日本では長年にわたり、国家による国民に対する監視への懸念が、根強い反対論となって、個人番号制度がなかなか実現しませんでした。

平和安全法制を巡っては「戦争をする国になる、徴兵制」が叫ばれ、テロ防止に必要な共謀罪を巡っても必要以上のアレルギー反応が国民にありました。もちろん、それらも個々には議論すべき論点は多々ありますが、特に、超高齢社会で必要な「見守り」や機能的な防災の構築、危機管理など、戦前のような「監視」とは全く異なる次元で国家機能を強化しなければならない新たな時代の要請が、数多く現れるようになっています。
果たして第二次世界大戦が戦後の日本に遺したのは、これからの新たな社会形成までも制約するような、こうした戦争トラウマだったのか…。

●平和を愛する日本国民と戦後の民主主義
今年の8月15日も平成最後の終戦記念日でしたが、私は思想信条的な意味合いを抜きに、ごく普通の国民の営みとして靖国神社を参拝いたしました。靖国参拝の都度、思うのは、無数の犠牲者や英霊が日本に遺してくれたものは、むしろ、平和を愛する日本国民であるということです。

「日本国憲法第9条にノーベル平和賞を」という運動がありますが、戦後、戦争を一切しなかったことを、9条の存在をもって顕彰するのは、日本国民に対して随分と失礼な話ではないかと思わないではありません。まさか、同条がなければ日本人は戦争をしていた国民だとでも言うのでしょうか。

あの平和安全法制が、国会による承認など武力行使に対して色々な縛りをかけたのは当然ですが、それ以前に、自国を戦争に引きずり込むようなことをする政権が日本で政治的に立ち行けるとは考えられません。少なくとも次の選挙で政権を失うでしょう。戦前とは全く異なる民主主義が日本には定着しています。政権の暴走や煽動の懸念を言うなら、国民がそれぐらいチェックもできずして何の主権在民かということになるでしょう。

●自衛のための戦争を合憲化した芦田修正論
およそ戦争というものには、自衛戦争、制裁戦争、侵略戦争がありますが、日本国憲法第9条1項で規定された「戦争放棄」とは、侵略戦争をしないことを意味するというのが、国際社会でも通用する一般的な解釈です。下図をご覧ください。
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侵略戦争の放棄を謳ったものとされる「パリ不戦条約」と同じ文言が、日本国憲法9条1項でも使用されていることがわかります。

この憲法9条の第2項のほうについては「芦田修正」論というものがあります。図で下線を引いた箇所「前項の目的を達するため、」は、現行憲法の策定当時、日本政府憲法改正小委員会において委員長の芦田均氏が挿入したものとされます。

その意図は、「前項」である9条1項が禁止したのは侵略戦争であって、この文言を挿入することで、第2項の戦力不保持が、およそ国家として必要不可欠な自衛のための戦争についてまで意味するものではないものとすることにありました。つまり、この文言を入れないと、日本は自衛のための戦力すら持てないことになってしまうからです。

しかし、これは私も国会で内閣法制局長官に質したことですが、日本政府の解釈は、この「芦田修正」論を認めず、「前項の目的」とは、9条1項の前段、つまり、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを指すものだという公権解釈になっています。第1項の重要な趣旨が後段の「戦争放棄」であるというのが、同項を読んだときの素直な解釈に思えますので、政府解釈自体がどうも、意図的に歪められたものになっているような印象があります。

●芦田修正論の限界と交戦権の否認
ただ、こうしたいびつな印象のある解釈を正して「芦田修正」論こそが正しいものだと解するとしても、そこには決定的な限界があります。第2項をよく読むと、文章が一回、句点「。」で切れています。そこで、「前項の目的を達するため、」がかかっているのは句点まで、つまり、その後の「交戦権」の否認にまでは及んでおらず、日本国の交戦権は丸ごと、否認された形になっているということになってしまいます。

例えば、句点を読点(、)にして「陸海空軍その他の戦力は、これを保持せず、国の交戦権は、これを認めない。」とつなげれば、芦田修正論によって自衛のための交戦権は認められることになるのですが…。

この交戦権ですが、これは国が元来有する本質的な国家主権そのものであり、自衛のためにやむを得ないなら、本来は犯罪である殺傷行為の違法性を阻却するのが、そもそも国家が存在する本質的な理由の一つだというのが国際社会の常識だそうです。

戦争放棄の規定の例は他国にもありますが、交戦権を否定して主権の大事な部分まで放棄した憲法の事例は、日本国憲法以外には存在しないようです。この、日本国が主権国家の体をなしていないという点については、もっと本格的な議論を行い、国民の理解と合意を得ていく必要があるでしょう。

●9条改正論の根拠は平和を愛する日本国民にあり
いずれにしても、現行の9条を素直に読めば、自衛隊は違憲になってしまいますので、政府は、9条以外の憲法条文、例えば前文に規定された「平和のうちに生存する権利」(平和的生存権)や、第13条に規定される「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(幸福追求権)をもって、自衛隊の合憲性の根拠としています。

これも随分と複雑であやふやな分かりにくい解釈であり、芦田修正論のほうがよほど明快だと思うのですが、現状の政府解釈はそうなっています。

ただ、これでは自衛隊違憲論を排除するには十分でないということで、安倍総理が提唱しているのが、9条の2を新たに設け、「自衛隊を置く」と規定することで、自衛隊の合憲性を条文上、明確にするということです。

これに対して石破茂氏は、前述の交戦権の否認の下りが2項にある限り、こうした規定の新設は論理整合性を欠くとして、より本格的な改憲論が必要とする立場ですが、改憲ということそれ自体について未だ国民の理解が不十分な現状にあって、改憲を拙速に進めれば、将来の本格的な改憲をも妨げかねないという立場なのでしょう。

私も、今すぐに9条2項の交戦権規定を改正することまでをここで主張するものではありませんが、物事の考え方として、私たちはもう少し、日本人が平和や民主主義について信頼度の高い成熟した国民であることに思いを馳せ、それに自信を持つべきではないでしょうか。そのために、戦争の惨禍を子孫に語り継いでいく。

このことへの自負と責任意識を持つ国民であるからこそ、憲法改正によって真の主権を取り戻し、自立をめざすことができると考える。

つまり、改憲論を理解する際の論拠を、日本人が民主主義と平和を愛する国民であることに求めるという発想です。少なくとも、国の安全と平和を「護憲」ではなく、自らの主権者意識に依拠させる発想へと転換しなければ、真の自立も、次の時代を創造する民主的な国家選択も、実現しにくいのではないかと思います。

とりわけ、これからの日本にとって重要な政治の軸となるのは危機管理です。この「危機管理」という言葉ですら、政治的にはかなり抵抗感が強いのが現状ですが、いま、その最重要の領域として浮上しているのが防災です。先頃は西日本豪雨もありました。戦前までは営まれていた防災教育はGHQが禁じたと言われます。ちなみに、どの先進国でも行われている政治教育も、私たちが真の主権者である上でタブー視してはならないでしょう。

戦後73年を経て、来年には元号も変わります。戦後、長らく多くの日本人を縛りつけてきた戦争トラウマからそろそろ脱し、本来、国に求められるものは何なのかを時代に合わせて真剣に考え、組み立てていくべき局面ではないかと思います。

松田学のビデオレター、第93回は「戦後日本の危機管理~立ち後れたサイバーセキュリティ」
チャンネル桜8月21日放映。その前半部分で、本稿の内容に触れられています。
こちら↓をご覧ください。

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プロフィール

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Author:matsuda-manabu
松田政策研究所は、松田学を中心とした講師・研究員が、これからの日本の未来に関する国家像や社会の在り様について総合的な調査・研究 を行い、夢を持てる国づくりの基盤を創り、社会と国家の発展に寄与するのが目的です。