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戦争をしない国の作法としての集団的自衛権 新政界往来誌に掲載、松田まなぶの国力倍増論第3回

 今回の安保法制、そ基本的な性格が真逆といってもいいほど誤解を受けています。法制の位置づけについて、正しい認識をとの思いで、「新政界往来」誌での松田まなぶの連載、同誌10月号に下記が掲載されました。

記事そのものは、こちら↓のp14を開けていただければご覧になれます。

http://www.seikaiourai.jp/seikai201510HP.pdf
 
日本新秩序へ 松田まなぶの国力倍増論 

第3回 戦争をしない国の作法としての集団的自衛権


松田政策研究所代表 東京大学大学院客員教授 前衆議院議員 松田まなぶ

 「違憲」、「戦争法案」、「徴兵制」…など、メディアや国会での安保法制反対論のズレまくりぶりには目に余るものがある。昨年7月に集団的自衛権の限定行使容認が閣議決定された前後の時期、筆者は衆議院内閣委員会で質問に立つたびに、菅官房長官などに安全保障に関する法律論をぶつけていたが、それは安倍政権を応援するためだった。趣旨が国民にあまりにも伝わっていなかったからだ。今回の法案審議を通じて、国民の誤解は頂点に達してしまった。

 国防力も国力の一つだが、筆者の「国力倍増論」は日本の防衛費の倍増を主張するものではない。それはむしろ、集団的自衛権の行使を一切認めない場合に迫られ得る事態だろう。極力小さな軍事力で国防力をアップするための人類の知恵、それが集団的自衛権だ。その活用こそが国力倍増への道である。

●集団的自衛権、小さな軍事力で戦争回避

 そもそも、第二次大戦後の国連の発足に際して、どの国連加盟国もが有する権利として個別的自衛権とともに国連憲章で認められたのが集団的自衛権だったが、ここであえて個別的とは異なる「集団的」という概念が出てきたことには理由があった。

 例えば、某X国が国連加盟国に侵略戦争を仕掛けた場合、本来なら、国連安保理の決議により、国連軍を編成するなどして国際社会全体で実力行使することになる。それを「集団安全保障」と言う。しかし、安保理の常任理事国は米、英、仏、ソ(露)、中の五カ国で、各々が拒否権を持つ。X国がこれら五カ国のいずれか、あるいはその傀儡国だったりするなど、拒否権の発動で安保理決議ができない事態が想定される。

 そこで、その場合に集団安全保障に代わる措置として、複数国が有志連合を結成してX国を抑え込めるよう、どの国もが集団的自衛権を有することが定められたわけである。NATO(北大西洋条約機構)などがその事例だ。同盟メンバー国であるA国がX国から攻撃されたら、他の同盟関係にあるB国やC国…等々もX国を武力攻撃できる。

 こうなると、X国としては、A国だけが相手なら戦争ができると考えても、A国を攻撃したら他の同盟国までX国を攻撃してくることになるから、A国への攻撃を踏みとどまることになる。A国単独であれば、日頃からX国からの攻撃に耐えられるだけの軍事力を備える必要があるが、こうした同盟関係を他国と結んでおけば、A国が備えておくべき軍事力はより小さくて済むことになる。

 集団的自衛権を行使できないとしてきた国としては日本の他にスイスがある。同国は永世中立国であるためこうした同盟関係に入らないのが国是だから、集団的自衛権を採らない代わりに、自国防衛のために徴兵制まで営んできた。このように、集団的自衛権とは、本質的には軍事大国化と徴兵制を回避する性格のものであって、いま日本で、全く逆の批判がなされているのは理解に苦しむ。

●実質は専守防衛であり違憲ではない

 日本の場合、今般の法制でも、右のような本来の国際標準の集団的自衛権にまでは踏み込まない点で、従来と変わりはない。平和憲法があるゆえに、あくまで自国の「存立危機事態」に限定される。しかも、この「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」とは、実質的には個別的自衛権の世界である。ただ、自国の領土領海が攻撃されていない以上、その場合の武力行使は形式的には国際法上、集団的自衛権に分類されてしまう。国連に報告するときに、これを個別的自衛権と報告すると、国際法と齟齬を来たす。だから、法的整合性の上で、憲法解釈の変更や立法措置が必要になった。

 これが本当に「違憲」なのだろうか。集団的自衛権を明確に否定した憲法条文も最高裁判決も存在しない。政府の憲法解釈しかないが、それは日本国憲法の趣旨に即して、その時々の状況に適応する解釈がなされてきたものに過ぎない。

 国際情勢や世界の安全保障の概念の変化、あるいはグローバル化で日本人や日本の設備が海外で活動を活発に展開するようになった現状は、かつては想定外だったであろう。人間はすべてを見通せる神様ではない。変化に適応できない種は滅びる。解釈変更まかりならんとの主張は「官僚の無謬性」の弊害を想起させる。大事なのは憲法の趣旨だ。

 これまで自衛隊の存在などを合憲としてきた根拠も、憲法が規定する平和的生存権などである。この権利を全うするために自国防衛のあり方を再構築してみると、国際法では集団的自衛権に分類される措置が必要な事態が想定されるような現実があるとしよう。その範囲なら、専守防衛の憲法の趣旨を逸脱しているとまでは言えないはずだ。

●国際標準ではハト派の安倍政権

 今回の安保法制が日本を戦争に引きずり込むというのは、論理の飛躍である。これで日本は海外派兵をする国に変わるとも言われるが、「海外派兵」はすでに23年前からしている。存立危機事態も、前述の文言からみて、誰が見ても明らかなほど深刻な事態だ。政府の説明にも問題があるが、現実には簡単に生じる事態ではない。これは相当な縛りである。米国からの要請があっても、従来同様の平和憲法の論理が歯止めになる。国会の承認が必要だから、政府には相当程度の説明責任が問われる。時の政権による恣意的な判断は政治的には困難だろう。武力行使の是非は有権者が次の選挙で審判を下すからだ。最終審判者は世界唯一の核爆弾被爆国である日本国の、世界で最も平和を愛する国民だ。これを軽くみてはいけない。

 国家による武力行使には自衛、制裁戦争、侵略戦争の3種類がある。昨年春、政府の安保法制懇談会は、憲法第9条は専ら侵略戦争を否認したものであり、自衛のみならず制裁戦争も憲法上許されるとの説に立脚した報告書を出した。これに対し、「積極的平和主義」が持論の安倍総理は、憲法解釈をこの報告書に倣うのかと思いきや、この説は採らないとし、イラク戦争に日本が参加するようなことは未来永劫ないと断じた。制裁戦争も国際標準での集団的自衛権も明確に否定したのである。これは安倍政権が予想以上にハト派に近い立場だとの印象を与えるものだった。右から左まである憲法解釈のうち、国際標準では中道左派にとどまっているとも言える。改憲論議が本当に必要になるのは、国際標準の集団的自衛権や制裁戦争に踏み込むステージにおいてなのである。

 国際社会がリスクを分担し合い、生命の犠牲を払ってでも世界の平和を確保しようと懸命に努力している時代にあって、自分たちだけは紛争から距離を置いて安全圏にいて、危ないことは他国にやってもらう…。今回の安保法制でも、この日本の姿が大きく変化するわけではない。金持ちは手を汚さず、おカネさえ出していればいいのだ、というのが果たして日本の国柄なのだろうか。

 一国の国力の基礎にあるのは国民の精神的矜持だと思う。他国並みにリスクをとることから逃げ続けるなら、せめて米国に対して同盟国としての責務を果たす覚悟ぐらいは示すべきだろう。命をかけて日本人を守る米国民が日本を本気で防衛しようとする気持ちを挫かないようにする。これが、日本が軍事大国への道を歩まずして自国の平和を確保する現実的な道だ。今般の集団的自衛権の限定行使容認は、そのような文脈で捉えるべきである。
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松田政策研究所は、松田学を中心とした講師・研究員が、これからの日本の未来に関する国家像や社会の在り様について総合的な調査・研究 を行い、夢を持てる国づくりの基盤を創り、社会と国家の発展に寄与するのが目的です。

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